今回は本郷から湯島エリアを歩きます。
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東京大学
本郷といえば、東京大学ですね。テレビなどでよく見かける赤門は見飽きてしまったので、今回は本部棟などのある龍岡門(たつおかもん)へ行ってみました。
残念ながら今は大学関係者しか入れないようで、少しおしゃれな龍岡門のローソンも使うことができませんでした。龍岡門の由来はこの周辺がかつては龍岡町と呼ばれていたことによるとされています。かつては門扉が設けられていましたが、今では拡張工事に伴い常時開放している形をとっています。
麟祥院
麟祥院の前を走る春日通りは、池袋から文京台東を通って墨田区まで東西に伸びる道ですが、この春日通りとはかつて春日局の屋敷があったことに由来しています。
春日局の墓
春日局は徳川三代将軍家光の乳母として家光を支えながらも、大奥の設置や女性政務官として活躍した人物です。その春日局のお墓が本郷エリアの麟祥院にあります。麟祥院という寺院の名前は春日局の戒名である「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」に由来しています。
春日局のお墓は4方向がすべて穴の空いた珍しい形をしています。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によるとされています。
また、家光の乳母となる前は稲葉家に嫁いでいたため、墓の家紋には稲葉家と徳川家両方のものがつけられています。
東洋大学発祥の地
麟祥院には他にも、かつては哲学院と呼ばれた東洋大学の発祥の地があります。
湯島天神
麟祥院から東の方へ進むと、湯島天神への参道があります。湯島天神は458年に雄略天皇の名によって建立され神社です。祭られている神様は「天之手力雄命」と学問の神様こと「菅原道真公」です。
学問にまつわる神社として多くの受験生が祈りを込めた絵馬が奉納されています。正式には湯島天満宮と呼ばれ、江戸時代には富籤という現在の宝くじの前身がこの場所で流行したそうです。
表鳥居
湯島天神の表鳥居は1667年に建てられた銅製のもので、東京の指定有形文化財になっています。江戸時代から湯島天神へ訪れる人々を受け入れ続けています。
湯島天神の梅
湯島天神の梅は都内でも有数の梅見地で、境内に300本もの梅がひしめき合っています。そのほとんどは白梅で「湯島の白梅」という戦中時の歌として大ヒットしたことでも知られています。
なで牛
天神さまと牛との関係も深く、菅原道真公が亡くなる際には「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言されたため、牛が歩みを止めた場所で埋葬したそうです。
多くの天満宮で牛の像が安置され、湯島天神でも「撫牛信仰」のもと、牛の撫でた場所が癒ると信じられています。
残念ながら、コロナの影響で現在は触ることができません。コロナも触って治せたらいいのに。
奇縁氷人石
湯島天神にある奇縁氷人石は迷子表示板のような役割を果たしていました。迷子が出たとき右側に紙を貼り出し、その子の特徴などを知らせていたそうです。江戸時代から湯島天神に多くの人が賑わいっていたことの象徴でもありますね。
講談高座発祥の地
湯島天神は講談「高座」の発祥の地としても知られています。かつて講談はお客さんと同じ目線から話をするのが主流でしたが、講談師の伊東燕晋が文化4(1807)年、徳川家康の偉業を語る際に、高さ三尺の高座を設けたことが講談高座の始まりとされています。
本殿
社殿は総檜造りで平成7年に造営されました。この頃には建築基準法が設けられ防災地域での木材建築が許されていませんでしたが、万全の防災機能をつけることで認可されたという歴史もあります。
正面に大きく開かれた妻は、鳥居のある場所と高低差が1メートルもあるため立派に見えるように工夫されています。
瓦斯灯
湯島天神にはかつて5基のガス灯が存在していました。電気灯へと変わっていく中でこれらのガス灯も取り外されましたが、昭和56年に1基だけ湯島天神に戻されました。泉鏡花の小説にも登場するガス灯を見ながら当時に思いを馳せてみてもいいでしょう。
湯島聖天
湯島天神から男坂を下ると、学問のみちという小道が伸びています。この小道には湯島聖天という神社もあります。湯島聖天は心城院とも言われ、もとは湯島天神の別当寺という関係にもありましたが、明治維新の神仏分離令により今では別になっています。
放生池
江戸時代の文献にも残る放生池は、かつて太鼓橋もかかる立派なものだったそうです。縁起のいいとされる亀を泳がせ、池の形自体が心の字のようになっていました。
柳の井
放生池へ流れていた水源となったのが、この柳の井戸。 江戸の名水とも言われ、「柳の井の水で髪を洗えば、どんな結び目でもほどけてしまうと言われています。柳の井は水枯れすることもなく、関東大震災の際には湯島天神に避難した人々を救いました。
湯島天神を背に学問のみちを歩いて、旅は、続く。
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